会長講演のお知らせ

 下記の通り会長講演を行いますので多数御参加下さい.
1.日 時 3月19日(火)17時~17時40分
2.場 所 第1会場

小口 高(東京大):「地の塩」の観点からみた地形学と日本地理学会の歴史的変化

 「地の塩」は新約聖書の「山上の垂訓」に出てくる言葉である.英語ではSalt of the Earthで,英語圏では善良,正直,謙虚,他者への思いやりといった要素を持つ人を指す言葉として頻繁に使われている.この言葉をタイトルにした1968年のローリング・ストーンズの曲が,労働者階級への賛歌になっているように,「地の塩」は社会的な地位が低い人々への配慮や,反権威といった意味も持っている.英語圏ではDown to Earthの語が,「空想的ではなく現実的」という意味の言葉として使われるが,これも「謙虚で親しみやすい人」といった意味にしばしば転用される.これらの例は,Earthの語が物理的な存在としての地球や地面のみならず,良き人格とも関連付けられることを示す.
 演者は数年前に,日本の地形学の歴史的な発展を国際的な地形学と関連付けたレビュー論文を執筆した.その中で,日本の地形学の発展は,世界の学問の中で欧米の権威が相対的に弱まる過程と,日本の学問の中で派閥主義が減少する過程と対応することを指摘した.以前は,欧米で提唱された地形学の概念を日本に適用する傾向が強かったが,日本の地形の実態に基づいた研究を海外に発信する状況が増加し,国際的な双方向性や平等性が高まった.また,日本の地形学では,自身が所属する学閥が方法論などの点で他に勝るといった主張が以前はしばしばあったが,最近はほとんどみられない.これらは,権威主義的な思考を排して多様な価値を認める「地の塩」と呼べる要素が,以前よりも強まったことを示唆する.
 演者は日本地理学会においても,過去約30年間に「地の塩」を指向する傾向が明瞭になったと考えている.たとえば1996年より前には,経済的に制約がある学生であっても高額な会費を支払う必要があったが,今では学生会費の設定が当然のことになっている.学術大会の際の懇親会も,ホテルなどで行って高い参加費をとる傾向が強い時代があった.さらに,かつては教育を学術研究よりも軽視する傾向がみられたが,1997年に地理教育専門委員会が新設されて高校地理必修化への粘り強い取り組みが行われ,学術大会では高校生ポスターセッションが継続的に行われるようになった.ソーシャルメディアを通じた一般人向けの積極的な発信や,テレビ番組「ブラタモリ」をいち早く表彰したことなども,新時代の日本地理学会ならではの事例である.日本地理学会が2012年に公益社団法人になって社会に貢献する必要性が増したことや,近年SDGsのような学問と社会を結びつける取り組みが社会全体で重視されるようになったことも,学会の方向性の変化に貢献したと思う.
 このように,日本地理学会が「地の塩」としての活動を近年強めてきたことは,「地」に根ざした学問である地理学の団体にふさわしいと演者は考えている.一方,今後のために考慮すべき点もある.最近の世界の政治の舞台では,20世紀には徐々に薄れていった権威主義や一国主義が復活する傾向がみられる.これが進むと,「地の塩」のような価値観が社会全般で軽視され,それが学術団体のあり方に影響を与えるかもしれない.また,学術研究では先端的で国際的に認知されるような成果を生むことが重要であり,このような成果の多寡で学問分野の価値が評価されることもある.一方,学術団体が社会的・庶民的な活動に重点を置きすぎると,最先端の研究を目指す意識が薄れ,尖った成果が減ってしまう可能性がある.このような面も考慮しつつ,多様な資質を持つ会員が互いを尊重して連携し,学術と社会的な活動の両方で良い成果をあげることが,今後の日本地理学会の発展のために重要であろう.